汎神論という考え方

人間の知性は、その進化の過程で、2つの方向性が分化してきたように思います。
ひとつは、記号の操作に関する知性であり、もうひとつは「存在の前で身をかがめる」知性です。前者は、西欧の機械文明を生み出し、現在も世界を席巻し、インテリを自認する者たちもこのような知性の発達した者たちです。かかる知性は本能から人を遠ざけ利己主義を発達させました(利己主義というのは、知性の産物であって、個体保存の本能とは少し違うようです、この点はまた時間の余裕をみて考察したいと思います)。かかる利己主義が神を殺し、人を殺しています。一方、後者は、どちらかというと顧みられていません。時代遅れ、とさえ思われているかもしれません。

汎神論と評価されるスピノザですが、彼の言いたいことは、そのひとことでくくれるほど単純なものではないですが、「存在の前で身をかがめる」という面について少し述べたいと思います。

神をどう見るのか、スピノザによれば、それは、人を含めたこの世界の事象がすべて神という実体そのものであり、しかもそれが時々刻々生み出されていくということだそうです。つまり、神は、永遠に存在し続けるものでありながら時々刻々生まれているものなのです。

こうした存在の前に身をかがめること、これこそが信仰の原点だとスピノザはいうのです。

記号の操作に肥大化した知性には、「自分を愛することに忙しく」「在るものを愛すること」ができにくくなっているのではないでしょうか。


こう考えると、神は、断じて哀訴や嘆願の対象ではありません。感謝と謙遜を世界に対して持てるようになりたいものです。