呪詛つづき

義憤と私怨の区別は難しい。呪詛を行うと必ず自分に返ってくる。そうすると、呪詛は、ある意味命がけである。

故に、自分の命を賭けてまで、相手に呪いをかけ、守るべき価値があるものなのかどうか、よく考えてみることが大事だ。

呪いというものは呪う相手に気付かれることによって威力が倍増する。ブードゥー教の呪詛も同様で、呪う相手に呪われていると気づかれることによって倍増する。ブードゥー教の呪詛はまた強力だ。まず呪われたらおしまいである。呪いの儀式が最高潮に達した時、生きている鶏の首がちょんぎられる。そしてこの鶏を呪う相手の家に投げ込む。すると必ず呪われた相手は死ぬ。人間の念はかくも恐ろしい。

蠱毒も怖い。

蠱毒とは、wiki にも解説があるが、百虫を殺し合わせ、最後の一匹になったものを飼っておく。例えば毒蛇なら、これから採った毒を、呪う相手の食べ物などに混ぜて食わせる。すると、呪った相手が死ぬ。

これがもっとすごくなると、呪うつもりではないのに、蠱毒を飼っている家から、ものを貰う、毒入りでない食事や飲み物をご馳走になるだけで、蠱毒の呪いが発動してしまうことがあるらしい。

また、一定期間誰かを呪わずにいたりすると、その呪いは蠱毒を飼っている家の家族全員に向く。また、蠱毒そのものが死ぬと、やはりその呪いはその家の家族全員に向くらしい。

このように、蠱毒は怖い。手を出さないことである。

また、日本の呪詛でポピュラーなのは、「丑の刻参り」だろう。京都の貴船神社などで、今でも時々、行われているらしい。

ちなみに刑法の教科書に丑の刻参りが出て来る。不能犯と言って、殺人の実行行為になりえないものの例だ。でも、私は、あながち殺人の実行行為になりえないものとはいえないと思っている。

とにかく、呪詛には、手を出さないことをおすすめする。

人を殺したいほど憎らしい時は、呪うのではなく、その人に感謝して、その人から遠ざかりなさい。それが、カルマを断ち切ることになるからだ。

呪いの気持ちを持ち続けていると、自分がおかしくなってしまう。そして、いつしか、その気持ちが独り歩きをし始め、相手にも、自分にも、災厄が降りかかることになる。

人を呪わば、穴二つ。これを忘れないで欲しい。