終戦の日の雑感

終戦の日に、毎年思うこと、ここで取り上げたいのは、日本の先の戦争についての態度です。

もちろん単純な政治批判をしたいわけではありません。現代の僕たち日本人全体に言えることですが、「さきの戦争は、一部軍属の先導によって国家の方向性を誤った結果起きたことであって、アジア、いや世界の皆様に大変ご迷惑をおかけしました、本当に申し訳ありませんでした。」というとき、何か他人事のような気がしないでしょうか。

日本という国が戦前から現在まで継続している以上、さきの戦争の結果現在も残っている問題の責任はわれわれ現在の日本人全員にあるという認識に立たなければならないのだと思うのです。しかし、われわれは、どこか他人事のような気がしてしまう。これは一部には戦後の民主主義教育が引き起こした弊害であるところのノンモラルな風潮(これはマナーの悪さにも現れている、自分さえよければいい、自分は悪くない、人を人と思わない・・・)も原因していると思うのですが、今回は、これは置いておいて、また別の機会に話したいと思います。

日本は、敗戦後、アメリカの武力の脅迫によって平和憲法を押し付けられています(これは、松本烝治が憲法草案をGHQに提出したその場で、政府原案を一蹴し、GHQの民生局が作った原案を、ホイットニー准将が、アトミックサンシャインつまり、原子の日光をしばらく浴びてくるから、その短い間に、同行した吉田茂と相談して受け入れるように検討しろと言ったこと、つまりこれを受け入れないとまた原爆を落とすぞ、という間接的な脅迫があったことなどが、白洲次郎の手記などから明らかです)。日本は、原爆を落としたその相手からまさに平和憲法を押し付けられているのです。日本は、自分のした侵略戦争を十分恥じ入りも正当化もせずに、アメリカの脅迫の下で、平和国家の道を押し付けられたのです。
国連中心主義といいつつも、卑屈なまでのアメリカ追従外交は、アメリカが日本に履かせた平和憲法という足かせと一体になっています。これももう少し詳しく論じる必要がありますので、今回はパスです。

一方、過去の極東情勢を振り返って見ると、自民党政権時代には、政府の要人にさきの戦争は日本の侵略戦争だったという発言があり、だいたい機を同じくして、例えば南京大虐殺はなかったというような発言が政府与党内で起きたりして、慌ててその発言者が処分されたりしていました。


こういったジキルとハイドのような分裂はどうしておきたのでしょうか。おそらく日本は、先の戦争のことをゆっくり考え直す暇もなく、アメリカによっていわば狂人がロボトミーの手術をされ脳の一部を切除されておとなしくなったように、アジアの人々に対してしたことを記憶喪失してしまったのではないでしょうか。われに返ったとき、「あれは俺が心神喪失状態でやったことだ」というような思いがあるのではないでしょうか。そのため、さきの戦争をした日本人とわれわれ現代の日本人の一体化が不十分で、当事者性が希薄だからなのではないでしょうか。

では、この一体化はどうしたら図られるのでしょうか。「敗戦後論」の筆者、加藤典洋さんは、自国の侵略戦争を戦った兵士つまり決してその死が正当化されない兵士を、アジアの犠牲者よりに先に追悼して我々現代の日本人は彼らと一体になるべきだ、という主張をしています。決して正当化されることのない兵士の死を悼むことにより、彼らの穢れを我々の穢れとして引き受けることになり、これによって初めて当事者性を回復できるのだというのです。この当事者性を回復して初めて謝罪の主体になることができるのだというのです。アジアの人々の死を悼むことが先になると、それは、他人事として謝罪しているに過ぎないというのです。つまり、現代の日本人は、真に、謝罪の主体になっていないのではないか、というのです。

これには、「戦後責任論」を書いた高橋哲哉さんなどをはじめ激しい批判がありました。アジアの2千万の無辜の命をさしおいて侵略戦争をした自国の兵士の追悼をさきにするとは何事だ、という批判です。つまり、靖国神社に政府要人が参拝するのはけしからん、という意見です。

僕は、他でも書いてますが、日本は、戦後、みずからアジアの侵略を反省して主体的に平和国家の道を自ら選択したのではなく先に述べたとおりアメリカのいわば脅しによって上から押し付けられたと考えています。しかし、吉田・ダレス会談で、再軍備の脅しに対して、当時の政府要人は、押しつけ憲法を自分たちの憲法としてもう一度選びなおしています。

だとすれば、日本は(少なくとも当時の指導者層のレベルでは)、自分の立場を、みずから選びなおしたのです。

しかし、現政権・与党を始めとして、未だに現憲法を押しつけられたと誤解している人たちは大変多いのが残念です。

アジアの2千万の人々の追悼は、自分の立場をしっかり選んだあとでしなければ意味がありません。人ごとではなく、自分のこととして向き合わなければなりません。

真の自由とは、主体的選択を前提とします。主体的選択なくして、その選択について自ら責任を負うということはありえないと思います。他人が勝手に選んだのなら、その選択について自分には責任のとりようがありません。

しかし、戦争を知らない世代が大半になってしまった現代の日本にとって、自分のこととして選び直すことは、もう不可能に近いかも知れません。当事者性を永久に失ってしまうことになるのではと危惧しています。自分のやったことをすべて心から謝罪しない限り、真の謝罪にはならないし、中韓などからいつまでも外交のカードとしてさきの戦争のことが使われ続けるのではないでしょうか。

みなさんはどうお考えになるでしょうか?