社会契約と革命権の芽生えは江戸時代にもあった?

山鹿素行という人をご存知でしょうか?


古学の創始者であり、山鹿流兵法で知られる軍学者でもありました。
林羅山の門弟でしたが、朱子学を批判したため、赤穂藩に左遷され、そこで、大石内蔵助と出会います。「忠臣蔵」で名高い、元禄時代の大事件、吉良上野ノ介暗殺事件の哲学的背景となる思想家でした。

事件のいきさつは有名なのでここでは記しません。「仮名手本忠臣蔵」のような歌舞伎作品の下敷きにもなっています。もちろん私も、この歌舞伎作品は大好きです。

彼の「山鹿語類」には、こんなことが書いてあります。「百姓は土地を耕し、職人は道具を作り、商人は生活に必要な物の交易に携わる。こういう人々の仕事が社会に益することは明らかである。その生存の理由が明らかでないのは武士だけだ。では、武士の存在理由は何か。それは、進んで人倫を行い、正邪を見分けるに足る学問をし、邪悪を誅する武芸に励み、以てこの世に天倫の正しきを待つことである。」

武士は、物の生産、流通、消費に携わってはいない。武士以外の者は立派に社会の役に立っている。彼らにそれ以上の義務はない。義務があるのは、ただ何もせずに食って寝るだけの武士だけである。

赤穂藩の大石内蔵助は、山鹿素行の思想に深く傾倒していました。

この事件で大石がとった行動は泰平の世の武士の存在理由は何かという問いに対する答えでした。「武士道と云ふは、死ぬ事とみつけたり」と、山本常朝の「葉隠」にもある通り、主が受けた恥辱を晴らすのは、臣下の義務でした。これは、主君のために死ぬことを意味します。山鹿素行は、国家以前に永久不変に存在する正義があり、それを「天倫」と呼びました。

それは、共同体の正義を重んじる朱子学の思想とは相容れないものでした。浅野内匠頭を切腹させ、赤穂藩を取り潰したのに、吉良側には何の処罰もしなかった幕府の裁定を否定し、吉良に仇討ちを果たすことが、赤穂浪士たちの天下に示したかった「天倫」だったのです。大石は「天倫」を示して、処罰に服する道を選びました。すなわち仇討ちと処罰に服することその二つともが、彼ら有閑階級である武士にとっての社会に対する義務であると思ったからです。

このように、山鹿素行の思想は、本当に誅すべき相手は法律がどうであれ誅す、という確信犯を生み出す影響力を秘めています。だから幕藩体制の維持にとっては大変危険な思想でした。

まるで、ロックの社会契約と革命権と同様のものの芽生えを見る思いがします。ちなみに、ロックの「市民政府二論」が出版されたのが1690年、赤穂浪士討ち入りは、1703年だから、ほぼ同時代ということになります。

彼の墓は東京の早稲田にあります。