倫理的であるとは?〜自分の中の他人

倫理的であるとはどういうことでしょうか?

私も、倫理と社会について毎日のように考えています。
そんな中で、倫理と社会について、そして規範意識についてさらによく考えている人がいます。立教大学の前田先生です。その著書「倫理という力」の解題をここで披露したいと思います。自由とか、公共の福祉とかの限界を考えるのにも役立つと思います。また、機会があったらお読みになるのもいいと思います。先生の言いたいことはだいたい以下の通りだと思います。

殺人者であれ、泥棒であれ、麻薬中毒者であれ、自分の犯罪的行為について、人は何とかして自分と折り合いをつけようとすると前田先生は言います。人間は動物と違います。ロビンソンクルーソーのような独りぼっちの人間でも必ずもう一人の人間が付きまとっています。それは、もうひとりの自分であるところの社会化された他人です。この二重になった自分から逃れることは出来ません。この二重性は社会性と同じです。自分にどう言い聞かせるかは自分を社会の中でどう選ぶかと同じになるでしょう。人はこの選択から逃れられません。

私たちは、どんなときでももう一人の自分につきまとわれ、この自分を説得しないことにはどうにもなりません。不機嫌の嵐に見舞われます。説得はまるで社会の他人に向かってのようになされます。わたしたちの心は、自分自身のこの社会性から逃れて生きることは出来ません。

また、この時、説得するのではなく、命令する、というもうひとつの態度が人間には可能です。それは、どんな命令でしょうか。人を殺せ、物を盗め、自分だけがいい目を見ろ、という命令でしょうか。そうだとしてみましょう。そういう命令が可能だとしてみましょう。

しかし、人はその命令に従った自分について、またなんやかやともう一人の自分に言い聞かせるはめになります。そして、そのもう一人の自分は決して納得しません。つねに自分に反対する者として、自分の中に存在することになります。

こんな状態では、人は決して自由でなくなるでしょう。その人は自由意志に従っているとは言えなくなるでしょう。

言い聞かせるはめになるのは、良心があるからでしょうか?そう考えてもよいですが、事実はもっとはっきりしたことです。言い聞かせる相手が、つまり、そのもう一人の自分が、殺される他人、盗まれる他人になって、こちらを見返してくるからです。それが、社会を裏切るということでしょう。社会は、私たちの外側と内側に同時にあります・・・。

したがって、自分への命令が完全に自由になされうるためには、その命令は、社会を裏切るものであってはなりません。裏切るどころか、自分を社会と一体化させ、それへの責任を新たに生まれさせようとするような命令でなくてはなりません。

だとすれば、この命令は、社会の中の他人に命令するような具合になされるでしょうか?そんなことはありません。
なぜならこの時、人はもう一人の自分に対して機嫌をとる必要が少しもないからです。命令はまさに他でもない自分自身に対してどんな言い訳もなしになされるからです。自分というものの二重性は、ここでは分裂を起こさないからです。命令を実行する行動の充実の中で自己と社会は統一されます。それが自由ということです。

つまり、前田先生は、自分の行為の受け手である他人を代表する自分の中のもう一人の自分と完全に一致するような行為をすることが自由ということである、としています。規範の内面化のことでしょう。

これは、カントの定言命法とも重なります。
「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という「純粋実践理性の根本法則」は、仮言命法つまり「〜ならば・・・せよ」という倫理学の原理にはない、無条件の行為を命令するものです。

カントはこの行為を「純粋実践理性」による行為だとしているのに対し、前田先生は、この状態を「自由意志」による行為だとしていますが、それは、呼び方の問題で、実は同じものではないか、と私は思います。

要するに、社会性があり、倫理的であるということは、自己の利益が、そのまま社会の利益と一体になっている場合に成り立ちます。
自由という状態の表現について自己と社会の一体性の観点を持つというのは、ルソーの「一般意志」の考えとも近いです。また、ゲーム理論で言えば、自己の利益と社会の利益の両立を意味する、Win-Winの関係とも言えるでしょう。

いや違う、自己と社会の一体化なんて、それは全体主義だ、ファシズムだ!と騒ぎ出す輩もいることでしょうが、断じて違います。それはあまりに偏頗な考えです。あまりに甘っちょろい考えです。

個人の権利と社会的責任についての自覚、つまり規範意識についての自覚は、実は、血みどろの宗教戦争や市民革命を経てきた結果の妥協の産物なのです。それは、多くの血の池を通って成立してきたものです。決して予定調和でもなければ、安楽な上からの自由化、民主化とは全く違います。何だか既成のものであるかのように考えてしまうとすれば、やはりそれは戦後教育の誤りの結果だと言ってもいいでしょう。権利ばかり、つまり、自己の利益ばかり主張することを習い、義務つまり社会の中の自己の行為に責任を持つことを軽視してきた証拠にほかなりません。

残念ながら、日本の社会と日本人は、「人にも甘いが自分にもめっぽう甘い」ですね。こういうグダグダな社会に生きているということ、世の中の大抵の大人は、私も含めて、グダグダな思考しか持っていません。「きちんとしなさい」というのは土台無理な話かもしれません。

せめて、カントの定言命法もルソーの一般意志も、そして、現代の前田先生の考えも、多くの凄惨な事件を目撃してきた結果生まれたものである、ということを忘れないようにしたいです。