知性が日本を滅ぼす?〜ダメなものはダメ!

子供に何かを納得させるのに、常に理由をつけなければならないでしょうか?
「悪いことは悪い」、「ダメなものはダメ」というのではいけないのでしょうか?

先日、あるアメリカの雑誌を読んでいて、こんな記事に出会いました。子供はなんでも知りたがり、口癖として「なぜ?」と言っているようにも見えます。しかし、子供の「Why?」には二種類あり、ひとつは純粋に理由を知りたがっている場合で、もうひとつは、大人の言いつけに従いたくないので、言った大人に、再考を求める意味で使うのだという話です。

その記事では、言いつけに不明な点があれば丁寧に教えてやり、それでも、まだしつこく「なぜ?」を連発する場合は、「私はこれをしなさい(あるいはしてはいけない)と本気で言っているのだ、もし不明な点があれば、きちんと何がわからないか言いなさい、しかし、私はこのことを撤回する気はまったくない」と子供にはっきり伝えるべきだとしていました。

この点、特に、倫理、道徳についての部分には、はっきり理由を説明できないものが多いですね。刑法の論理では、法益侵害とかで説明するのでしょうが、子供が納得するような説明はできそうもありません。子供に説くときには、抽象的な話をせずに、具体的に、身近な知っている人を登場人物としてたとえ話をしてやると、素直に納得することが多いそうです。特に自分が被害者になった場合を想像させるのだそうです。

そういえば、アメリカの少年院でも、凶悪事件を起こした少年に、その被害者の役をさせて、犯罪被害者の気持ちを体験することで更生させるプログラムがありました。理屈で説明するよりもダイレクトに感じさせる方が、よく理解できることは案外多いのだなと思いました。

今の子供、子供に限らず大人も、考えることはできても「感じること」ができない人が多くなってきているように思います。ちょっと前、テレビのトーク番組で、「どうして人を殺してはいけないのか理由がわからない。」と発言した若者がいて、ぎょっとしました。この人は、子供の時分から大事にされ過ぎて痛みを知らないのでしょうか。人を殺してはいけないということに理由が必要でしょうか?弱い者いじめをしてはいけない、ということに理由は必要でしょうか?

殴られたことがなければ、殴られた人の痛さは解らない、刺されなければ、刺された人の痛さは解らないとしたら…、さすがに、刺す刺されるまで、周りの大人が放っておくことはないにしても、これに理由をつけて説明されなければわからない、というのでは、やはり異常だと言うほかないでしょう。

そういう極端な場合は別としても、日常の中で人の痛みを自分の痛みとして思いやる場面が少ないと思います。昔は、子供がある程度ケガをしても、けんかもさせたし、刃物も扱わせましたよね。そうすることで、痛さを学んだのです。思いやりは、知性から生じるものではないでしょう。感じる力から生じるものでしょう。自分が同じ立場に立ったときを想像して思いやるから、思いやりなのだと思います。

感じる力は少なくとも人類の本能に近いかもしれません。しかし何でも理屈をつけなければ納得しないし、人を説得できないと思っているのは、知性の働きです。動物の中でも、知能の高い類人猿の方が、他のライオンなどの猛獣と比べても、不必要な残虐性を持つ傾向が強いそうです。とすると、人間は最も知能が高いので、この種の知性が、自然から最も遠いところで発達し、恐ろしい残虐性を発揮します。そして、機械をつくり、環境を破壊していきます。この知性は、自分から遠い自然が破壊されてもまったく意に介せず自然の破壊をやめません。そしてついに自分の近くまで破壊が及び、その破壊を「感じる」ことでやっと破壊のおろかさを理解します。この理解は、まさに実感して理解するのです。

このアナロジーは、人間生活のあらゆる面に当てはまります。理由を説明されて納得しなければ理解できないなんて、知性の生み出す利己主義以外の何物でもないのです。環境破壊も、原発を巡る議論も、「知性」からだけでなく、この「感じる力」からも見る必要があるように思います。

また、ひとごみでスマホだけを見ながら歩く、ひどい場合、飲酒運転や危険ドラッグを吸って運転する、あおり運転をするなんていうのは、つまり知性の生み出す利己主義がなせる業なのです。自分だけがホームに転落する、あるいは、自分だけがガードレールを突き破って谷底に転落するだけなら勝手にやってほしいと思います。

また、例えば、アメリカのBLM運動は、警察や権力の横暴を非難するだけの運動ではありません。白人や経済的に優位にいる社会的な強者の利己主義に対する根強い感情的な反応なのだろうと思います。強者の弱者に対する思いやりのなさに対する切実な抵抗なのだろうと思います。

強者の弱者に対する暴力が、アメリカ中の至る所で、日常的に起きています。

でも、被害にあう人が出る可能性や社会に与える影響をちょっとでも想像したら到底できないはずです。それはやはり、「思いやり」がないのだろうと思います。そういう自己中心的な利己主義の人は、知性は発達していても、「感じる力」が乏しいのだろうと思います。そして、そういう知性をうまく発達させた人が、社会的強者になってゆくのです。こういう現象が、世界中の社会のあらゆるところで渦巻いています。「感じる力」の乏しい「強者」が、社会のあらゆるところに存在します。これは、本当に恐ろしいことです。

ここでいう、「感じる力」とは、ある種の「社会性」のことです。この「社会性」とは、「自分の言動が社会に与える影響を感じ取る力」と言えます。そして、これは、知識というより経験に拠るところが大きいと思います。つまり、社会性は、人とのやりとりのなかで「感じながら」身につけるものです。言葉だけで教えたり、頭だけで考えたりして、身につくものではありません。だから、どちらかというと、学校もこういうことはあまり教えません、あるいは教えられないらしいです。

アメリカでも、弱者の人権を保護する、弱者に対する暴力を認めない、これは理屈で納得するものではなく、経験的に感じて身につけるものではないでしょうか。

すでに述べたように、被害者の気持ちを体験させることによって更生させる少年院のプログラムが比較的最近導入されたのはとても驚きですが、アメリカの教育は、人を説得する技術、論理で人を納得させる技術に重きをおいて、人の気持ちを思いやる教育はあまり重視されてこなかったのでしょう。

そもそもアメリカは、コミュニティの自治の意識が強いと聞きます。政府にいろいろしてもらわずに、社会的強者が、自ら進んで喜捨や義務を果たし、弱者を救済する伝統があると聞きます。だから、オバマケアのような、政府の介入する社会保障は必要ないのだと。

でも、それは、アメリカ独立革命期、せいぜい、西部開拓期の話ですし、また、奴隷だった黒人は、コミュニティに入ってさえいなかったのでしょう。

60年代の公民権運動では随分と黒人の権利が認められたではないか、という反論もありそうです。たしかに、その時期に表面的には、少なくとも制度的には、黒人の権利が保障されたように見えます。しかし、この時期には、指導者の暗殺が相次ぎ、本当の社会の宥和、「アメリカ市民」の間に、相変わらず、黒人と白人は同じコミュニティに属するというアイデンティティは発達せずに、意識の改革は進まず、結局は、強者が弱者を差別、抑圧する実態には変化がなかったのだと思います。

弱者は強者を理屈で説得して、説得に応じた一部の強者の協力によって、強者の意識の上では差別や偏見があっても、少なくとも制度的には最低限の権利を不承不精認めてもらっただけであって、社会的分断は潜在的にますます進行していって現在に至っているのでしょう。

政治家は、強者ですが、ある意味、偽善、つまり弱者の権利を守るという態度を強いられなければ選挙に勝てなかったのが、そういう弱者への配慮として、ポリティカル・コレクトネスが重んじられました。しかし、それが行き着くところまでいってしまったので、強者の間では、うんざり感が出てきてしまい、ネットを中心に、本音で語るニュースソースが支持を得て、偽善に基づいたメインストリームのメディアはフェイクニュースのレッテルを貼られ、本音で語るヒーローがもてはやされて、トランプのようなゲスの極みのような奴が大統領になってしまったのではないでしょうか。

先日も、郊外に念願のマイホームを買って住んでいる、アメリカのコネティカット州の弁護士の男の人にインタビューした様子が報道されていました。その男の人は、近所に低所得者が買った住宅が建つのは嫌だ、良い住環境を求めてせっかくマイホームを買ったのだから、そういう平穏が侵害されるのは納得できない、という趣旨のことを言っていました。おそらく、この人は、自分が強者として、弱者に偏見を持っていて、差別してることに気づいていないのでしょう。そして、この人は、トランプ支持者だということでした。こんなことは日常茶飯事で、こんな人は普通の人なのでしょう。

クレイグ・ハミルトン・パーカーの予言の通り、もしトランプが再選されることになるとしたら、アメリカにはこのような、弱者の痛みを感じることができない「サイレント・マジョリティー」が存在することになります。

これは、恐ろしいことで、アメリカは本当にずうっーと「分断」社会のままだったことを示すものです。お互いに「思いやることができない」人が共存している。強者は弱者の気持ちをわからない。故に、強者は弱者を差別し抑圧しても何とも思わない。

私は、そうなって欲しくないです。私は、トランプが負ける方に賭けたいです。それが、占いとして外れてもです。

弱者は強者の気持ちがわからないじゃないか!と反論されそうですが、弱者は強者に不当な扱いをやめてほしいと主張しているだけであって、それは弱者が強者を差別しているとか、抑圧しているわけではないですよね。事実、強者は、弱者が抗議しても、日常生活は送れるわけで、その置かれている状況の切迫度が違います。強者は、単に、弱者が抗議すれば、不快に思うだけです。まあ、不快に思う時点で、人間として、「思いやりがない」のだと思いますけど。

じゃあ、そういう弱者の大半は、貧困層で、しかも黒人で、犯罪予備軍なんだから、治安の維持のために、権力に差別されても、抑圧されても、仕方がない、という反論が来そうです。

しかし、それ自体、偏見だと言えるし、そういう社会構造を歴史的に作り出してきたのは強者の方でしょう?強者が、真に、自由や平等、人権を強者の間だけの果実にせずに、弱者にもその恩恵を広げて、強者の意識を変えるように、教育や変革を通じて社会を改善して来なかったから、そして、それを、ゆるしてしまったから、起きているというか、潜在的にずっとあった「分断」なのではないか、と私なら反論します。

そういえば、江戸時代、会津藩の藩校、日新館では、「什(じゅう)」という、十人前後のグループをつくり、ひとりの年長者が「什長(じゅうちょう)」となって、グループ内の掟をつくり、メンバーに守らせていました。その掟の中には、「弱い者いじめをしてはならない」というのもありました。そして、そのいくつかある掟の最後に、「ならぬことはならぬものです。」と付け加えました。つまり、「理由なんかない、いけないことはいけないのだ。」ということです。「理由があっても、その行為が正当化されることは断じてない」ということです。なぜ正当化されないのかは、理屈ではなく、経験を通して感じ取るしかないのです。

もちろん、知性の発達は重要です。しかし、我々現代日本人も、戦後の教育のせいか、知性の発達ばかりを重視し、「感じること」を疎かにしてきたのかもしれません。私たちは、子どもたちに「感じること」通して学ばせると同時に、大人たちも「感じること」を通して「ダメなものはダメ」、「ならぬことはならぬ」という精神をもう一度身につけたいものです。

長文駄文失礼しました。ここまで、お付き合いくださって、どうもありがとうございました。