佐久間象山と易経

僕が江戸時代の人で尊敬できる人のひとりとして、佐久間象山がいます。

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この人は、頭のめっぽう切れる人で、人との接し方も一種の殺気があったんじゃないかと思うほどにシビアな人だったと想像しています。
それでも、私塾を開いて、多くの門人を集めたところを考えると、やはり、人徳のある人だったのではないでしょうか。

彼は、基本は儒学者で、政治的には公武合体論を、外交的には、開国論を主張した人ですが、教育者としても優れており、その門人には、吉田松陰や、小泉首相の時に有名になった「米百俵」の小林虎三郎もいました。

彼の教えの基本は、「東洋の道徳」と「西洋の技術(技芸)」の両方を一体として身につけよ、というものでした。

この辺は世界史で習った中国清王朝末期の洋務運動の「中体西用」に一見似てます。
ご存知の通り、「中体西用」は、中国の封建思想をそのままに西洋技術のみを取り入れたため、日清戦争の敗北などから、歴史上、失敗と評価されています。

しかし、佐久間象山の教えは、「道と芸」を「一体として」身につけよ、ということであって、その後の明治文明開花期の西洋文化の移入における学問のあり方の指針ともなり、いわゆる「中体西用」とは決定的に異なる、後の日本の近代化を成功させる根本思想とも成っていったのではないかと、僕は想像しています。

彼は、吉田松陰の海禁を侵した罪に連座し、江戸で牢屋に入ったり、蟄居を命じられたりして不遇の時を過ごすのですが、いよいよ、幕府が危ないというときに、一橋慶喜に招かれて、京都で公武合体と開国論を講演をするため上京し、そこで尊皇攘夷派の武士に暗殺されます。当時京都には、尊皇攘夷派の志士たちがうじゃうじゃいましたから、公武合体や開国を唱える佐久間象山は、まさに死地に赴く覚悟で行ったのだと思います。

そうそう、江戸時代の知識人である武士の教養は「四書・五経」でしたが、佐久間象山も、当然、易経のたしなみはあって、上洛にあたり易を立てたそうです。
出た卦は、沢天夬(たくてんかい)という卦で、「馬上で死ぬ」という結果でした。そして、その通り、京都の町を馬で移動中に刺されて死んだのです。
上洛にあたっては、門人などの反対も激しかったと聞きます。それを押し切って、たとえ殺されても自分の信じるところを貫く、というのは、なかなか出来ることではありません。
そういう意味で、彼は、理想主義者であったし、また、真のサムライであったと思います。

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