
英語のことわざに、Life is no laughing matter.というのがある。
「人生は決して笑い事ではない」とでも訳せばいいのだろうか。
僕は、いままで、ずっと、「人生は笑い事だ」と思ってきた。
しかし、この歳になって、また、この頃の世情をみるにつけて
ますます、笑えなくなっている自分に気づく。
異教徒と見れば殺せと平気で教え、殉教者は天国に行けると説く宗教あり、
偽善で糊塗した薄っぺらな思想をさも真実であるかのようにうそぶく政治家あり、
自分より弱い者、幼い者に暴力のはけ口を求め、挙句の果てに切り刻む変質者あり、
毎日くだらないことを大量に垂れ流し、それが間違いであっても隠蔽しようとするマスコミあり、
そして、どんなに政治が悪くても、経済が悪くても、我慢するしか出来ない無言の大衆がある。
「歴史が証明してくれる」という人もいる。
しかし、この高度情報化社会の下で、歴史などが存続するのだろうか?
あらゆることがあっという間に忘れ去られる。
やはり、フレデリック・ジェイムスンの言うように「永遠に上書きされ続ける現在」があるばかりで
歴史にはならないのではあるまいか?
人間の営為が歴史になるには、人々に共感されねばならない。共感とはつまり身体感覚である。
我々は、現在が上書きされてしまうと、すぐに身体感覚を失い、忘却してしまう。
身体感覚を忘れることは、自分の物理的存在を忘れるということだ。
つまり、自分が「そこにいた」という感覚を忘れてしまうことである。
身体感覚を伴わない単なる記録の山は、決して歴史にはなれない。
歴史がなければ、そこから学ぶことも出来ない。
これが、現代に生きる我々の悲劇なのかもしれない。
かく言う僕も、いま感じている身体感覚をすぐに忘れてしまうだろう。
こんなに悲しく怒っていても、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の中の
ロバート・デ・ニーロのように、アヘンは吸わないけれども、すぐに忘れて、ヘラヘラしてしまうだろう。悲しいけれども・・・。