この時期に改めて思うこと

 僕は、平和が好きだ。腰抜けと言われても、戦争はまっぴらである。今日は、いつもとはまた違ったスタイルで、この時期改めて思うことを記そうと思う。長くなるし、とりとめがなくなり、また、誤解が生じる恐れがあるが敢えて記しておこうと思う。
 
 日本は2度の完全自己否定を経験した。
一度目は、明治維新の時、幕藩体制の全否定。身分制度の全否定。それにまつわる価値観の全否定。
二度目は、先の終戦の時。日本の天皇を中心とする国家体制の全否定。日本的価値観の全否定。アジア侵略の全否定。
この全否定の上に、現在の日本が立っている。

 そして、アメリカの占領政策、国際社会への復帰後の対日政策もとてもうまくいった。社会主義者、共産主義者、そして日教組をうまく使うことによって、戦前の日本的価値観、愛国心をことごとく破壊し、世界でまれに見る「愛国心のない」国民に仕立て上げることにアメリカは成功した。世界中どこと比較しても、これほど、自分の国に誇りを持てない国民はいないように思う。

 その証拠に、安易にアメリカに留学して、アメリカ英語はできるようになったけれども、自分に語るべきものが何もなく、全てはアメリカ人の受け売りで、挙句の果てに、アメリカ人と一緒になって日本のここが悪いとか批判している知識人が多く見られた。また、猫も杓子もアメリカに留学して訳の分からない大学で学位をとったことを自慢する頭の悪い学生を多く見た。

 また、アメリカのことだけわかればグローバルな視点を持ったとか誤解している向きも多い。アメリカは世界で一番ドメスティックな国だということが何故わからないのか、呆れるばかりである。アメリカのフィルターを通した報道しか接していない人は当然ドメスティックになる。愚かだ・・・。

 それから「戦後レジームからの脱却」とかをいまさら言っている人もいるようだ。しかし、まさに噴飯物だ。そんなのこの先も絶対にできるはずはずがない。日本の基礎はまさに戦後レジームにしかないのだから。こんなことちょっと考えればすぐに判るのに。先に述べた日本の戦後の立ち位置は、すべてこのレジームの中にあるのだ。「戦後レジームからの脱却」というのを、首相も、自民党も、どうやら先の日本の敗戦はなかった、アジア侵略もなかった、天皇を中心とする国体の変更もなかった、戦争放棄も平和主義もなかった、そして日本国憲法もなかった、ということにしたいらしい。

 戦後レジームは全てなかったことにして、戦前のような体制にもどそうとする魂胆が見え見えだ。日本の戦前の体制は、完全に否定されたし、自分でも否定して再出発し国際社会に受け入れられているのである。国民の権利を奪う憲法草案を作り、法の支配を無視して専制政治をしようという自民党に騙されてはいけない。国民の本当の生活、苦しみ、願いを一ミリもわかっていない奴らに騙されてはいけない。

 現行憲法は、問題も多く、改正すべきところも多くあるように思う。しかし、自民党の憲法草案よりは、はるかにマシである。集団的自衛権の問題も、その根本は首相と自民党が法の支配や民主主義を無視した点にある。これは、戦後民主主義の重大な危機である。もし、今までのことをなかったことにしたら、日本は、現在の国際社会で立ち位置がなくなってしまう。

 ヨーロッパでは、集団的自衛権の閣議決定の手法などから、日本ではもはや民主主義や法の支配は行われておらず、自民党と首相による専制国家になってしまっている、という理解が一般的である。首相は「ソフト・ファシスト」と呼ばれている。政権発足当初から批判的であったヨーロッパの新聞の論調は、その危惧と疑念をますます強めているのである。日本が変わる、いや元のように戻るのを恐れているのは、中韓だけではない。

 平和憲法は、確かに日本の占領政策の一環としてアメリカから押し付けられたものだ。しかし、冷戦が始まってから今度は日本に「反共の防壁」の役割が押し付けられた時(1951年1月29日 吉田・ダレス会談)、吉田茂がダレスにいわゆる「弱者の恫喝」をして、新憲法違反、予算不足、憲法改正国民投票不成立をあげた。つまり、アメリカ国務長官ダレスの再軍備の要求に対し当時の政府はこの「押し付け憲法」を自分たちのものとしてもう一度選び直したという事実も忘れてはならない。そして、戦後75年間にわたって、日本が、戦争でひとりの外国人も殺さなかったのは、この平和憲法のおかげであることは疑いがない。

 そして、たしかに、自衛隊を国際標準の軍隊に戻すべきだ、という議論も昨今の東アジアの情勢に鑑みると理解はできなくもない。しかし、どんな法理論上の詭弁を弄しても、憲法9条が、自衛戦争を含めた、武力の行使、武力による威嚇を禁じていることは明らかだ。これを削除するなどしなければ、自衛隊を軍隊にすることは当然、憲法違反になる。

 また、憲法なんか無視してしまえばいい、という意見もある。それに近い意見も聴く。また、現内閣、自民党は、そういう考えで政治をしているようにしか見えない。

 しかし、憲法には、「規範性」というものがある。憲法の「規範性」というのは、いわば理想だ。日本人は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」のではなかったか?「日本国民は、国家の名誉にかけ、この崇高な理想と目的を達成することを誓」ったのではなかったか?

 理想というのは、実現が難しいから理想なのだ。特に、この憲法の理想は実に実現が難しい。捨てようと思えば簡単に捨てられる理想、なぜなら、考え方によっては、この理想を持つ方が現在の人類の中でおかしい、と思えるからだ。バカげた理想に思えるからだ。本当にバカげた理想だろうか?

 戦争が最後の手段なのは、コストがかかるからだ。コストは経済的なものだけではない。戦争がもたらす経済的損失だけではない。人命、国際世論の非難、そして、理想の放棄もコストだと認識すべきだ。日本が先の大戦で戦争に踏み切ったのは、この視点が全く足りなかった。コストの計算なしに戦争は出来ないはずなのに、軍部の官僚主義と驕慢と楽観主義が悲劇をもたらしたのだ。まあ、百歩譲って、コストの計算はしたかも知れないが余りに丼勘定だった。これに朝日新聞などのマスコミも加担した。日本の恐ろしいところは、これに同調整圧力が自然と加わったところだ。国民はこれで何にも言えなくなってしまった。

 安易に敵基地攻撃能力を持つことを検討するというのは、国家の安全保障のあり方を根底から変えてしまうことを真剣にまず考えて欲しい。もし核保有国と交戦したら核攻撃されるのは間違いない。もちろん、それも恐ろしいことのひとつだ。でも、もっと恐ろしいことが起こるかもしれない。

 かのクラウゼヴィッツは大部な「戦争論」の中で「戦争は外交の失敗」と言っている。日本は伝統的に外交が上手な国ではない。だとすれば、日本が不戦平和の理想を達成する最も有効な手段は、「外交に長けること」ではないだろうか。中国は伝統的に外交上手である。日本は、優秀な外交官の養成、諜報活動の拡充に努めること、諜報活動は軍事であることを割引いてもなお、価値があると思う。これが理想を捨てる前になすべきことではないだろうか?そのために軍備の拡充よりも予算を充てるべきだ。

私は日本人に理想を捨てて欲しくないのである。