自由の牢獄

「モモ」で有名な、ミヒャエルエンデに、「自由の牢獄」という話があります。それは、こんなお話です。

昔、アラブに金持ちの商人がいました。この男、あらゆる贅沢と不信心を繰り返し神をないがしろにしていました。
そんなある時、悪魔が、絶世の美女に化けて、彼を誘惑しました。

この男、悪魔の化けた美女にすっかり魅了されて、お前を手に入れられるのならなんでもする、と言ってしまうんです。
すると、悪魔の化けた美女は、それなら、あなたは、今後何をするにも、すべて自分の意思にしたがってやってほしい、というようなことを言うんです。


そして、その美女を追いかけているうちに部屋のようなところに迷い込むんです。そこには、扉が無数にあり、ひとつひとつの扉には鍵はかけられていない。
その男は、そこから出て行こうとしますが、どの扉が、どこに通じているのかさっぱりわからない。
扉の向こうは断崖絶壁になっているかもしれないし、ライオンや蛇が待っているかもしれない・・・。
結局その男は、どの扉を選ぶことも出来ずに、そこから出ることをあきらめて、最後は年老いて死んでしまいます。

このお話は、現代の我々のおかれている状況の寓意になっています。
つまり我々はすでに、神を殺し、冷戦をくぐり抜け、共産主義を打倒し、自由を制限する可能性のあったいかなる外的原理も、もはや存在しないという状況になっている。しかし、どのような選択をすることも出来るはずなのに、結局我々は、自由でありすぎるために何も選べないという自己矛盾に陥っている。豊かすぎる自由は自由を否定する、ということです。そして、あえて皮肉を込めて表現すれば、現代日本ほど自由な国はないかも知れません。

そこで、人に選んでもらうことを志向するようになる。現在の日本の風潮になぞらえていうならば、自粛要請ではなくて、欧米のように法律的に罰則付きの禁止にして欲しい。主体的選択の結果としての自粛ではなく、ハッキリ禁止にして欲しい。かなり多くの人がそう思っているかもしれない。自粛の基準がわからない、とか、どこまでが三密なのか基準が欲しい、微妙な場合の判断ができない云々。だから、政府に決めてもらいたい。また、政府がお金をたくさんくれるなら喜んで営業自粛します、という人は多いかもしれない。

そして、もし、この自粛生活が終わったあとも、現在の自分の生活が保障されるなら、多少のことには目をつむり、月々20万円のベーシックインカムと引き換えに、政治的決断などのややこしい、興味のない事柄については、喜んで他人に自由を手放すかもしれない。

めんどくさい自由を手放して、選択や決断を他人に依存する、そこに実は独裁の萌芽があるのです。

でも、独裁自体が悪いわけではありません。

もし、その他人の選択や決断が自分の選択や決断と全く同じものでないにしても、まあ許せるレベルのものであれば、他人に選んでもらった方が、自分で選ぶよりずっと楽になれるし、そもそも大多数の人々にとっては、今回の自粛問題で明らかになったように、選択や決断自体が苦痛で仕方がないのです。

安心して決断や選択をまかすことのできる独裁的他者、中○共産○でもなく、NK国の将軍様でもなく、もっと確実で科学的で確率的に選択の間違いの非常に少ない存在になら人々がその自由を手放してもいいと思えるような存在がもし出現すれば、そして、もし、この安楽を求める気持ちがそれ自体目的となるならば、人々は喜んで自由を手放し安心して選択や決断をまかすことのできる独裁的他者に依存するようになるでしょう。

それこそが、自由の最大の敵となるのかも知れません。

歴史的に見て、これにほんの一瞬成功した者はいるかもしれないですが、結局はみんな大失敗でした。

この先、そんな神様みたいな独裁的他者は現れるでしょうか?多分、安心して選択や決断をまかすことのできる存在は、人じゃないんでしょうね。多分、人を超えた存在で、2045年くらいに現れるのかもしれませんね。ニーチェのいう「超人」でしょう。いや、「人」ではないのだから、「超人的存在」でしょう。

その出現の時こそ、自由というものの、また、民主主義の、そして人間の尊厳の最大の危機となるかも知れません。