
前回からの続きです。前回の内容は こちら です。
シュタイナーの思想体系は複雑で膨大なものですので、体系の最初からをいちいち紐解いていたのでは、このブログの読者様にとって必ずしも興味を惹くものにならない可能性があります。
そこで、優先順位をつけて、調べていくことにします。
その優先順位とは、以下の通りです。
1.アーリマンが三千年期(西暦2000年以降)に受肉し、ルシファーとサタン(?)を使って、人類に大災厄をもたらす、ということの意味を詳しく調べること。
2.日本は地球の頂点であり、日本が、世界に起きる大災厄の雛形になり、日本で、数々の大災厄が起きる、ということの意味を詳しく調べること。
3.人類は霊的な進化の途上であり、大災厄が進化を促すことになる、ということの意味を詳しく調べること。
以上をます詳しく調べようと思います。
限られた時間と能力の中でどこまでできるかわかりませんが、やってみたいと思います。何回かに分けてやっていくことになります。
今回は、第4回目、アーリマンがもたらす大災厄についてのシュタイナーの予言の続きです。
今回もこの本を参考にしていきます。
アーリマンが、科学技術を使って、人間に安穏な暮らしを提供し、さらに、インターネットを通じて仮想世界を見せられることによって、現実世界の背後にある真の霊的世界について、それを感知する能力を失なっていき、結局、目に見えるデータ、専門家や権威者のいうことしか信じなくなります。そして、アーリマンが人々に見せる仮想世界は、個々人にカスタマイズされたものとなり、人々は真実を共有することができなくなり、人々の間に分断が生じる、というところまで書きました。
アーリマンは民族主義を利用する
まず、シュタイナーの生きた時代、1920年頃は、ヨーロッパでは、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊から、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどの旧帝国植民地が独立し、民族国家を打ち立てた時代だということを念頭におかねばなりません。
その上で、シュタイナーは、その時代、民族主義ということが盛んに言われているけれども、知性や精神の中から発したものではない民族や部族などの繋がりがアピールされるならば、人類の間に不協和音が生じることになる、としています。また、アーリマン的な力は、この人類の間の不協和音をとりわけ利用することができ、民族的なショービニズム、あらゆる倒錯した愛国主義を材料として、アーリマンは自分が必要としているものを組み立てる、と言っています。
この民族国家、部族国家間の対立は、ヨーロッパに限らず現在も世界中で続いています。また、ヨーロッパでは、民族主義的ナショナリズムを標榜した極右運動も盛んになってきています。シュタイナーの指摘する通り、アーリマンは世界中に自分の勢力拡大するために、この民族主義を利用する企てを行なっており、それは大いに成功していると言えます。
今後、民族主義、部族主義をベースにした運動がますます盛んになり、人々の分断、抗争が大いに扇動されて、世界中で、大きな争い、紛争になっていくことが危惧されます。
数字と統計ばかりの学問もアーリマンに利用される
まず、人間は、どんな立場、どんな見解に立っても、その立場、見解に、一定の正当性を持っている限り、それぞれの立場、見解に基づき、自己の正当性を証明することは可能である、とシュタイナーは言っています。つまり、レーニン主義の正当性も、それと正反対の立場も、それぞれに一定の正当性がある以上、それを同程度に証明することは可能だということです。
ただ、その証明は事物の本質に相応した存在の真理の段階までは深まっていないので、表層的な理解にしか至ってはおらず、いとも簡単に、欺かれてしまう、とも言っています。
そして、「現在、人々は学問において数字を好みます。人々は社会生活においてすら数字を好むのです。社会に関する学問に目を向けてみてください。これらの学問はほとんど純粋に統計から成り立っています。そして、重要な事柄は統計から、つまり数字から推論されます。数字とともにあらゆることが証明され、信用を獲得します。数字はあることを証明する手段ではなく、人々を欺くための手段なのです。人々が数字から質的なものへ目を向けないならば、数字を超えて質的なものを見ないならば、たいてい数字に騙されることになります。数字が証明の手段として持ち出され、証明の手段とみなされるとき、アーリマンは目的を達成することができるのです。」
この指摘も、現代に当てはめると、怖いくらいに当たっているのではないでしょうか。経済が好況か不況か、国民が豊かなのかそうでないのか、という指標は山のようにあり、そういう数字で示される指標に基づき、我々は現状を理解、認識するしかありません。我々の健康状態も、数字によって健康、不健康が決められます。血糖値、血圧、コレステロール値、尿酸値、さまざまな健康に関する指標が数字で示され判断されるのです。現在のコロナ禍もそうです。新規陽性者数、病床使用率、実効再生産数、ワクチン接種率、ワクチンの有効性についての指標などなど、全て数字です。数字が、状況を表し、さまざまな施策、対応の有効性などが、数字で証明される、そんな時代に生きています。
指標の有効性や発表される数字が本当に正しいかはほとんど議論されていません。数字に頼っている限り、私たちは、簡単に騙されてしまうでしょう。数字を超えた質的な変化を見ることの重要性をシュタイナーは主張しているのです。
アーリマンは人々を離反させ、互いに争わせる
人々が分断され、争いが生じることはすでに書きました。さらにもうひと推しします。例の本から引用します。
「人々は、ますます小さなグループに分裂していきます。その結果、ついにはグループにはたった一人の人しか属さないようになるでしょう。そうなればさらに、一人の人間は左と右に分裂し、自分自身と争うようになるでしょう。つまり右の人間が左の人間と争うのです。そのため多くの素質が現在既に、人類の進化の中に現れています。」
分裂が究極まで進むと、一人の人間の中に、精神分裂が進む、ということでしょうか。アーリマンは一人の人間の中に、自己矛盾、自家撞着を生み出すと言っているのかもしれません。
だとすると、現代人は、既に、大多数の人が、多かれ少なかれ、精神分裂的な性質を持っていますので、アーリマンの人類への支配は、相当に進んでいると言えるでしょう。
アーリマンについての記述は、一旦、ここまでとします。
次は、ルシファーについて、ルシファーが3000年紀(西暦2000年〜)に、アーリマンと協力して、どのような災厄を引き起こすのか、について調べてお伝えします。
短い期間にこれだけの内容と考えを纏めて提示される力とお気持ちに感謝を捧げます。私自身が貧乏暇なしでの生活の糧を得る作業と混乱の最中の惑いを見つめる中ですので、纏まった考えや論考は機会がもし与えられたらと思います。これほどの内容に対して貧弱な反応で申し訳なく思います。其々の箇所で浮かんでくる聖書の言葉や自らの愚考です。「民族主義の利用」と「アーリマンは人々を離反させ、互いに争わせる」については、マタイによる福音書第24章に弟子たちが世の終わりにはどんな前兆がありますかとイエス様に問うた時に様々な現象を語られていますが、「人に惑わされないように(主体性や自主性の放棄か)」「民は民に(民族主義を指すのでは?)、国は国に敵対して立ち上がるだろう」「多くの人の愛が冷えるだろう(自らの中に閉じこもって他者を愛そうとはしなくなるか)」と語られた内容に対応する時代に入ったのかもしれない。アーリマンがその備えをしているのではと。「数字と統計ばかりの学問もアーリマンに利用される」は、高齢者施設で事務や会計を担当していたものとしての実感、「数字は嘘をつかないが、嘘は数字を作り上げる」です。統計作業等は数字をいかに使うかで人を説得又は誤魔化す道具に使われるのかです。国や自治体、会社等が示す膨大な数字を処理、消化するだけでも膨大な作業ですが、その中にどのような意図や絡繰りがあるかを見極めるのは根気と意識が無ければ出来ないことです。そしてその際に必要なのは「何かおかしいのではないか」と感じる直感なのではとも感じています。米国や日本政府、マスコミが提示するから正確なものと思うのは危ない一歩になりかねません。ごめんなさい。テイジン様のような思考を纏めて提示する力や少ないので上手く伝えられているかは分かりませんが、簡単なコメントですみません。なお、前回のテイジン様のコメントで「大賢」とかいうお言葉を頂きましたが、とてもとても。分からないことだらけで勝手かつ自己流の考えを申し上げているだけです。これに懲りずにご教示くださいますように。ルシファー編も期待していますが、本当にご無理のないように。馬鹿げた五輪騒動と戦争状態に突入した感のあるコロナ禍です。奥様共々にお元気でお過ごしくださいますようにお祈りさせていただいています。ありがとうございました。
中尾さん
コメントありがとうございます。
いつも的確、適切なご指摘どうもありがとうございます。
聖書のこと不勉強で申し訳ありませんが、中尾さんのお話を伺っていると、シュタイナーのアーリマンについての記述はきっと聖書の中のイエス・キリストの言葉を敷衍したものだと思います。
統計というのは、あらかじめ決まった主張に説得力を持たせるための技術だと思います。統計はどのようにも解釈できるからです。まさに、シュタイナーの言うように、どんな言説も正当化でき、数字や統計は、その正当性を信じさせるために利用されています。
数字の向こう側にある質的な変化を読み取ることができなければ、我々は数字、統計に騙されることになるでしょうね。
数値を超えた質的な変化の感知ということについては私自身、次のような経験があります。
私は、マニュアル車に乗るのですが、クラッチの具合が悪かったので、ディーラーに見てもらったところ、「数値に異常はありません」「ですので正常です」と言われたことがありました。ディーラーのメカニックの人は個人的には、「なんとなくクラッチ近いですよね」とか言ってくれたのですが、ディーラーとしての結論は数値を重視したものでした。もし、命に直結した仕事をしている人たちが数値のみをもとに機械の異常を判断するのなら、アーリマンの思う壺なのだろうと思います。
また、アイルトン・セナが、死のレースの直前に、「ステアリングの調子が悪い」と訴えていたのに、メカニックが異常を発見できなかったため、事故死したことを思い出します。
とかく、感覚的なものをバカにする風潮が最近の世の中にはあると思うのですが、しかし、判断の元になっている数値自体を疑う癖がついている中尾さんのような人を騙すことは難しいでしょうね。私もとても心強くいられます。
もちろん、私の考えがすべて正しいとは微塵も思いません。人間としての限界、私自身の能力の限界もありますので、誤謬や誤認がありましたらどうぞ容赦なくご指摘くださると幸甚です。中尾さんはご謙遜なさっていますが、それも中尾さんの美徳のひとつだと解釈しております。
お忙しいところ、いつもコメントくださり、お気遣いくださり、本当に感謝しております。どうぞ、ご家族様皆様のご多幸、ご健勝をお祈り申し上げます。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げますm(_ _)m