世界は多分自分が思っているより複雑で奥深い

最近、「世界線が違う」という言葉がネットで流行っているみたいです。

「世界線」というのは、ジョン・タイターがよく使っていた言葉です。ジョン・タイターは、西暦2000年に、自分を2036年からやってきたタイムトラベラーだと言ってネット掲示板に現れました。

そして、彼は、色々な予言をしました。当たった予言も数多くあるのですが、そして予言が外れると、「私のいた世界線と違っているのかもしれない」と言いました。自分いた世界のタイムラインでは、次にこういうことが起きたんだけど、君たちの世界では起きなかったみたいだね、みたいな言い方でした。その時から、自分と誰か他の人が、別々のパラレルワールドにいることを「世界線が違う」というようになったようです。

最近、ツイッターなどで、この「世界線が違う」という言葉をよく目にします。でも、本当にパラレルワールドのことを言っているのではなくて、自分とあなたは意見が違う、住む世界が違う、というような意味で使っている人も多いです。社会的な分断が顕著になった証拠かもしれません。

でも、このまま分断が進んでいくと、本当に、お互いにパラレルワールドに住むようになってしまうかもしれません。意識が現実を作り出すので、それぞれが違う現実を作り出して、本当に違う世界に住むようになるかもしれません。アセンションもこうやって起きるのかもしれませんね。

実は、同じ世界線を生きていたと思っていた(勝手に思っていた)家人と私も、違う世界線を生きていたことを今日知って愕然としています。人はみんな、それ自身の現実を生きているのだということを改めて実感しました。なるほど、確かに、「人は自分で自分の現実を作り出す」というのは真実だと、改めて思いました。そして同時に、自分は本当に幸せ者だということが判り、そして、まだお互いに姿が認識できる程度に同じ現実で生きてくれていることに、家人には改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。

閑話休題。ネットで読んだ記事で、恋人同士がデートをするために待ち合わせをしたのですが、待ち合わせ場所で会うことができず、デート出来なかったという話を思い出しました。同じ場所に同じ時刻にいるのに、そして、当人同士以外の環境は全く同じなのに、お互いの姿が見えない、という話です。まさに、お互いにパラレルワールドにいる、という状態ですね。今の話っぽく、ラインとか電話は通じて、話ができるようです。そして、次の日に待ち合わせをしたらちゃんと会えたとか。不思議ですね。これと同じようなお話は、アニメ「君の名は」でも扱っているテーマです。

この世界は、三次元のパラレルワールドどうしが幾重にも折り重なっていたり、継ぎ目がほころびていたりするのかもしれません。また、三次元ではない異次元の世界ともつながっていて、そのスキマが時々開くのかもしれません。そしてその時、運が良いのか悪いのか、たまたまそこを通りかかったばかりに、知らずに異世界に入って行ってしまう、ということも起こるのかもしれません。

東日本大震災の時、被災地を車で進んでいる時に、知らずに異世界に入っていったという話もネットで読んだことがあります。大地震のような地磁気の異常によって時空が歪められのでしょうか。

ところで、先日、ある方とZoomで話していて、人間存在とテクノロジーの進歩についての話題になりました。

現在、脳とコンピューターの研究が進んでいます。自分の脳の活動をマッピングしてコンピューター上に置き換えることができるようになっています。近い将来、自分の脳の機能をコンピューターにアップロードすることができるようになるでしょう。

そうしたら、自分の意識はコンピューター上に永遠に存在して生き続けることができるのでしょうか。

人間存在についての理解は、実は、それほど進歩していません。現在広く受け入れられている考えは二つあります。哲学の始まり以来続く考え方です。一つは物心二元論です。すなわち、身体と精神の二元論ですね。もう一つは、人間の精神というのは、物理化学的な変化の産物に過ぎないという物質一元論(唯物論)です。

脳の働きをコンピューター上に再現して、それで意識が生じるとするのは、唯物論でしょう。つまり、心とか意識とか、精神というのは、脳の電気信号的変化以外のなにものでもない、という考えに基づいています。人間の意識は、単なる脳の電気信号的変化が作り出す物理現象の結果だというのです。

脳科学者の多くはこの考え方を支持するでしょう。意識や精神というのは、脳というコンピューターを動かすOS(オペレーションシステム)と同じだと考えているようです。

このOSは、生まれてから死ぬまで各個人で独自にアップデートされ続け、他の人の脳のOSとはプログラミングが違うので、それを個性とか、人格というのだ、と解釈しているようです。

このOSそのものをコピーして、コンピューター上で走らせれば、個性、人格は、生きているその人と全く同じに再現される。これを、「コンピューター上に意識を移す」と言っているようですね。

でも、これで本当に、自分は、コンピューター上に意識を持つことができるのでしょうか?

私は、そうは思いません。

確かに、ものすごく精巧な自分のようなものはコンピューター上に出現するのかもしれませんが、それが、自分の意識と同じものであるとは、到底思えません。

シュタイナー的に言えば、それは、アーリマンの魔術によって生じた偽の自分です。

自分という存在は、コンピューターで簡単に置き換えられるほど薄っぺらな存在ではないと思います。

自分は単に3次元にだけ存在しているのではなく、この宇宙が11次元で出来ているとすれば、それぞれの次元に自分は存在するのだろうと思います。もしかすると、11次元に自分の本体が居て、今見えるこの3次元世界にいる私たちは、11次元の本体が3次元世界に落とした単なる影かもしれません。

だとすれば、3次元でだけ、自分の意識を模倣してコンピューター上に再現したとしても、それは、いわば単なる影だけを写し撮ったものであり、実体を伴わないものなのだから、全くのまやかし、アーリマンの単なる魔術に過ぎないのかもしれません。

自分を本当に再現しようと思ったら、11次元まで昇っていって、11次元の自分から複製しないとダメでしょう。ですから、今やっている、コンピューターに自己を置き換えるというのは、ただのまやかし以外の何ものでもないと思うのです。

「シンギュラリティ」という言葉の生みの親、レイ=カーツワイルも、この技術に期待していて、自分の意識をコンピューター上に移植する準備のため、自分についてのあらゆる情報を記録しているのだとか聞きます。

彼は、唯物論を信じていて、なおかつ死を恐れているのでしょう。唯物論に立てば、自分が死ねば、自分という存在は、いくらコンピューターサイエンスの天才であっても、この3次元世界では無に帰してしまうからです。

自分は単なる三次元的な存在ではない、ということが分かっていれば、3次元における死は、次の生命の段階に進む進化の始まりかもしれないのです。死とは、重い肉体を脱ぎ捨て、物理3次元に落とした影がなくなるだけのちっぽけな出来事に過ぎないのかもしれないのです。

そうして、ひとつずつそれぞれの次元の肉体を脱ぎ捨てていき、ついに第11次元に自分の意識がたどり着いた時、自分はもしかしたら神となり、新しい宇宙の創造者になるかもしれないのです。これが宇宙の真理かもしれません。あるいは、自分勝手な愚かな妄想に過ぎないのかもしれません。

妄想のついでに↓こんな映画を思い出しました。

この映画で描かれている結末も私の妄想に近いですよ。もしよかったらどうぞ。

今日は、ここまでとします。雑談っぽく、取り留めもなく書きました。