「現象としての人間」の逢着点

Pierre Teilhard de Chardin (1881-1955). Jesuit philosopher and paleontologist.

テイヤール・ド・シャルダンというカトリック神父であり科学者にして哲学者がいます。彼は、「現象としての人間」などの著作が有名です。彼の思想は、概ね以下の様なものです。

この宇宙は、気の遠くなるような時間を費やして生命を誕生させ、さらに全地球上の生命の努力の結晶がわれわれ人類であると彼は言っています。つまりわれわれは全宇宙の進化の最先端にいるのだと。また、ここははっきりしないのだけれど、この人類までの進化には、その道筋が決まっていて、偶然人類まで進化したのではなく、進化は地球の意思であり、それがここまでにしてきたんだと言いたいようです。

これを彼は「愛」の法則であるといいます。そしてそれは物質にはたらく物理化学法則の中にもあるといいます。壮大な愛の原理が、全宇宙のエネルギーをただ一点にのみ集中させ、大きな始まりを生み出し、すべての生命にもこの愛の原理が作用して、思考できる生物を、それこそ全地球上の生命のすべての努力の賜物として生み出したのだと、彼は力説します。

また、我々人類のように、全地球的に生息し、地球をまるで覆いつくすようにその意識を展開させた生物はかつていないと彼は言います。ここまで、人類を進化させてきた愛の原理は、我々をどこに導くのか。まず、これほどまでに人類間のコミュニケーションが密接になってくると、情報は瞬時に伝わり私たちは共時性を経験します。(インターネットなどはその好例)

そして、その共時性が最高度に達するとき、ついには、集団的な精神、知性というものを生み出すのだというのです。全人類の精神が時空間に作用を及ぼし、人間個人を超えた高次の知性を生み出すのだそうです。こうなった段階を彼はオメガ点というのですが、オメガはギリシャ文字の最後のアルファベットで、究極の点を意味します。

では個人はどうなるかというと、肉体的な制約を離れ、もうひとつ上の次元に行くのだというのです。つまり肉体を必要としない次元へジャンプするのだと。

ここからは、私の考えです。「2001年宇宙の旅」をご覧になったでしょうか?始原の地球にモノリスという巨大な黒い石の壁が降り立ち、生命の進化を促します。そして類人猿に進化し、その投げた骨が、宇宙船に変わる場面はとても印象的でしたね。地球は宇宙に旅立っていける知性を何十億年もかけて生み出したのだなあ、と感じます。

「2001年宇宙の旅」は1968年の制作ですから、国内的には列島改造論で無秩序な開発による公害問題が深刻化し、東大安田講堂事件など政治上も大荒れの時代でした。また、アメリカでは、レイチェルカーソンの「沈黙の春」も刊行されていましたし、ベトナムは泥沼化して、核戦略を軸とする東西冷戦も真っ最中の時代です。このような時代に、「人間は地球の生み出したガン細胞ではないか」と思う人も多くいました。

そしてテイヤールドシャルダンは50年代から60年代の思想家ですから、当然こうした地球と人類の状況をよくわかっていました。人間は全宇宙の進化の精華であるがゆえに価値があるのであり、人間という現象のかけがえのなさは、この点のみにあるをことを主張し、「おまえら自分勝手なことばかりしてせっかく生まれた貴重な精神を滅ぼすんじゃないぞ」と言いたかったかもしれません。

しかし、かれは、人間の生きている価値はまさに進化という現象を自らのうちで起こすことにこそ意味があるのであって、個人の理想とかヒューマニズムを実現するから価値があるという一般的な人間性の尊厳にあるのではないと考えていたように僕には思えます。

むしろ、かれは、もっと大きなものを見ていたのだと思います。人類のオメガ点への進化は、科学的必然であると彼は言います(彼は古生物学者という立派な科学者でした!)。まさに、「善き人も悪しき人もみな歓びのばら色の道を辿る」のだと。

Earth From Outer Space

ちょっとシニカルな見方をすると、予定調和的で、ホントかよ、と思えなくもないのですが、これほど強く確信をもって言われると、「そ、そうかも^_^;」と思ってしまいます。
それに、個人の理想とかヒューマニズムが人間の価値なんかではないと、バッサリと切り捨てるところもあるように思います。僕は個人的には、彼の考えって、ニーチェに似てると思うんです。

まさに「超人思想」。僕は二十代の後半からしばらく精神的な危機に陥ったことがあって、死ぬことばっかり考えていたんですね。そんなときにニーチェを初めて読んだんです。そこから僕が得たことは以下のようなものです。

つまり、現実の把握の仕方には、生物によって違いがあり、たとえば、りんごをみて、猫は、まるくてじゃれるのに都合のいいものとしか認識しないが、人間は、万有引力をみることもできる。でも宇宙人がもしりんごを見たら、違う認識を持つかもしれない。

すなわち、人間には、もともと認識にも限界がある。人間にとっての現実というのは、人間が見たそのもでしかない。だから、人間以上の認識をもって人間の行動を規律しようとする宗教は、根本的に人間の行動の基準として間違っている。人間にとって大切なのは、現実をありのままに直視することであり、あの世の幸せを夢見るなんていうのは、現実逃避以外の何者でもない。

たとえばキリスト教は、「汝の敵を愛せ」という。「汝にあだなすものを哀れめ」と教えるが、それは、人間の本性としておかしい。敵を、また、あだなすものを憎むのが人間である。そこには自分で自分の気持ちをごまかすものがある。また、自由とか人間の尊厳とかを唱えるヒューマニズムも現実を見ようとしている点では宗教よりはましだが、この考え自体がキリスト教から生まれたものであるし、現実をありのままに見ようとしないから偽善的だ。

だから、自由主義者、博愛主義者もまた自分で自分をだましている。真にすごい人(超人)は、人生の現実が苦悩の連続であっても、それが永久に続いたとしても、OKと言える人のことであり、どんなかわいそうな人がいてもかわいそうだと同情しない人のことを言うのであり、人類の生きている価値は、この超人を生み出すことにあるんだ、と、ニーチェは言いました。

テイヤールドシャルダンの場合、人間の生活上の苦悩なんかは捨象してしまっているので、単純にニーチェと比べられないですが、人間の価値が人類全体としてオメガ点へ進化することにあると言っているところが、ニーチェの超人思想と似てるなあと思います。奇しくも、「神は死んだ」として、キリスト教を否定したニーチェと、アヴァンギャルドなカトリック神父(彼は、カトリックの否定する進化論を信じていたらしい)が同じようなことを考えているとは、思ってみれば不思議な事ですね。