今更ながら現代資本主義は恐ろしいシステムだと思った話

久しぶりに電車に乗った。しかも、かなり混んでいるやつだ。政府は、満員電車では感染する危険は少ないと言っているが、どうだか。しかも、私がよく使う新宿や渋谷の駅は、人の動線がメチャクチャで、あらゆる方向から人がやってくる。

Shinjuku station platform signs

おびただしい数の人々がいろんなペースで歩いているので非常に歩くのが難しい。たまに突然立ち止まる人もいて、必ずぶつかる。スマホを見ていて、自分の進行方向を見ていない人も多くて、ぶつかってくる。しかも謝る人もあまり多くない。他人を人だと思わないのか?本当にいけ好かない奴らだ。

これだけ人でひしめいているのに、アノミーな人たち。この状態はやはり異常だ。だから、みんな先を急ぎ、イライラしている。そのイライラが私にも伝染してくる。こういう時、人は少しだけ他人に対して意地悪になるのかもしれない。
もとをただせば人が多くなりすぎているのだろう。私も上京者なのでそういう状態を作り出すことに加担しているわけだが。

そもそも、都市の発達と現代資本主義の発達はパラレルだな、などと先日ぼんやり考えていたら今村仁司の文章に出会った。だいたい以下のような内容であった。

すなわち、

「昔は、家族・市民社会・国家はそれぞれ別個の独立した構成、行動様式をもっていた。そして、それぞれが調和をとりつつ併存するのが理想であり、初めてこのことを理論づけたのは、ヘーゲルであった。
しかし、すべての人間を自由で平等な市民と見做し、それぞれに自己の利益を追求させ、万人の万人に対する闘争状態を引き起こす資本主義の原理が、近代市民社会を作り出すと、ヘーゲル的な共同体観は一変する。

すなわち、資本主義の原理を体現した市民社会のシステムが家族の領域をも浸食しはじめたのである。
つまり、家族という領域にまで、この資本主義の原理が侵入し、その構成員をアトム化させ、それぞれが自己の利益を追求するようゲゼルシャフト化させた。結果、家族の構成員間でさえもお互いに自己の利益をめぐり闘争状態を作り出すものになってしまった。

その結果、大家族制は崩壊し核家族が現れるが、それさえも単なる過渡的な形態にすぎず、無家族状態にまで行き着くかもしれない。

そしてまた、近代法はこのようなアノミーな闘争状態にある個人に武器を与える結果となった。すなわち自己の利益追求の正当性の根拠が私権であり、これを自由に行使しうるとすることによって資本の集中と蓄積を促したのである。

そこには構造的な勝者と敗者が明らかに現出してくるにもかかわらず、私権の正当な行使の自由性と権利能力の平等性をもって、さらなる利益をめぐる戦いに個人を駆り立て、闘争状態を永続的なものにしたのである。

こうして資本主義の原理が世の中にひろく行き渡るようになり、アノミーな個人は、自己の利益追求のため他者に対して極めて暴力的になる。家族の構成員間でさえも例外でない。

このような社会の中では、子供は早く大人になることを要求される。親と子の間も緊張関係が生じる。一方、親の世代は、利益追求をめぐる闘争の最前線で戦い、早く老いてゆく。

資本主義の原理の下では年長であることには何の価値もない。老人は資本主義的闘争を戦えなくなれば社会の隅に退場させられる。

このようにして、子供は早く大人になり、親は早く老いてゆく。このシステムの中では若いことが価値あることなのに、このシステムによって老人が早く大量生産され、社会は老人で溢れかえる。
このパラドックスは止められないし、子供も老人も、市民として大人と平等に扱うという一種の暴力がはびこっている。しかし、誰もどうすることもできない。悲しい現実である。」

以上である。

この考えが正しいなら、我々中高年は、そろそろ、このシステムから「旧型」として、排除されるのも時間の問題だ。

今村仁司の著作をすべて読んでいるわけではない。この文章では、家族の崩壊をなんとか食い止めなければならない、と述べられていたが、具体的な提言はなかった。

現代資本主義社会というのは、やはり恐ろしいシステムだとあらためて私は思う。結局誰も幸せにならないのではないだろうか?

などと、ふと考えてしまった。


いやいや、そんなことは絶対にないと思いたい。満員電車にゆられながら、もう少しよく考えてみたい。