アジャン・プロヴォカトール

アジャン・プロヴォカトールというのは、刑法上の概念で、直訳すると「そそのかす警ら巡査」という意味です。

つまり犯罪を教唆しておいて、犯罪を犯したら捕まえる警官のことで、これは直接的にはおとり捜査などで問題になります。しかし、これに似たことが世の中に多いと感じます。


まず、これにかなり近い例で僕が実際に体験したことです。

高速道路で、後ろから煽られて、スピード出すでしょう。すると実は後ろの車が覆面パトカーで捕まるというケース。これはすごく問題なのだけれど、スピードを出したのは事実だし、パトカーが煽ったという証拠がないのでまず争っても負けますから泣き寝入りです。

また、国家権力でなくても、マスコミなどに多いと思うんですが、非常に扇情的なものやそれに付随する諸々を流行らせておいて、手を出した奴、一線を踏み外した奴を厳しく糾弾するというやり方(例えば、援交とか、最近ではパパ活とかシュガーダディというらしいです)。

ともかく、いろいろなものに踊らされているうちに、だんだん判断力がなくなってきて、例えば、アルコールの検知器を車に導入して、飲酒運転できないようにしちゃえばいいというような意見なんかに両手を挙げて賛成するようになります。自分で決めずに機械に決めてもらうということですね。

でもこれはとても危険な考えで、「飲酒運転をしない」という主体的選択をする機会を権力に譲り渡してしまう。歴史的には、ナチスのやり口です。ちなみに、最近日本は、やわらかいファシズムのにおいがプンプンがします。僕は検知器なんかを愛車につけるのはまっぴらです。

「濫用できない自由はもはや自由ではない」とジェファーソンは言っています。濫用できるくらい自由でないと本当の自由ではないというくらいの意味ですが、その場合、自由の濫用の誘惑もあるかもしれないけれども、濫用によって他人が迷惑を蒙る場合は、「濫用しない」という主体的選択を個人は期待されています。

そういう選択ができない人は、人間が人間たる所以、自分の中の果てしない内的葛藤、条理と不条理の闘いに敗北していることに気づいて欲しい。この敗北はどうやっても正当化できないことを知って欲しいです。つまり、ノームの内面化とでもいうものが成熟した個人には不可欠です。

もちろん、自粛警察を正当化するつもりは毛頭ありません。あくまで、個人の主体的選択の問題ですから。

とにかく、主体的選択を譲り渡すこと、つまり、権力の側からすれば、権利を奪うきっかけをつくることは簡単で、時に魅力的です。自分で決めるなんてめんどくさい、信頼できる存在に決めてもらうということが、本来、人は大好きなのです。

自分の行動を信頼できる機械に決めてもらう?僕はまっぴらごめんです。しかし、残念ながら、ファシズムが生まれる温床は、実は不幸なことに、こういう、面倒くさいから他人に決めてもらうことの中にあるのです。

世の中の絶えざる、さまざまなバイアスの渦の中で、主体的自己を確立していく、これが、近代的自我の重要問題であり、現代民主主義の宿命なのです。時に孤立しても、反感をかっても、友を失っても、貫かなければならない個人の責務だと思います。

こういう個人でないと民主主義、政府やマスメディアに主体的判断をのっとられている現代民主主義は正常に機能しません(現に機能しているかは疑わしいですが)。

個人がこの程度に成熟していなければ、コロナ後の社会経済体制の維持は不可能です。さもなければ、日本は、世界は、きっと、流線型の、いや見た目もっとかっこよく偽装されたファシズムに向かうに違いありません。