シュタイナーの思想について(5)〜アーリマンとルシファーの協力関係について

前回からの続きです。前回の内容は こちら です。

シュタイナーの思想体系は複雑で膨大なものですので、体系の最初からをいちいち紐解いていたのでは、このブログの読者様にとって必ずしも興味を惹くものにならない可能性があります。

そこで、優先順位をつけて、調べていくことにします。

その優先順位とは、以下の通りです。

1.アーリマンが三千年期(西暦2000年以降)に受肉し、ルシファーとサタン(?)を使って、人類に大災厄をもたらす、ということの意味を詳しく調べること。

2.日本は地球の頂点であり、日本が、世界に起きる大災厄の雛形になり、日本で、数々の大災厄が起きる、ということの意味を詳しく調べること。

3.人類は霊的な進化の途上であり、大災厄が進化を促すことになる、ということの意味を詳しく調べること。

以上をます詳しく調べようと思います。

限られた時間と能力の中でどこまでできるかわかりませんが、やってみたいと思います。何回かに分けてやっていくことになります。

今回は、第5回目、アーリマンとルシファーの協力関係についてのシュタイナーの予言です。

今回もこの本を参考にしていきます。この本からの引用には、太字斜体字を使いました。

アーリマンとルシファーの結んだ契約とは?

「アーリマンとルシファーは一種の契約を結びました。その契約とは次のようなものです。『アーリマンである私は、缶詰を私の取り分としてもらえるならば、非常にありがたいと思う。もし君が、胃に関する人間の意識をまどろみの状態に置いておくことを私にまかせてくれるなら、君には胃を委ねることにしよう』」

「胃に関してまどろみの中にいる人間とは、私が「魂を食らう者」とか「精神を食らう者」と呼んだ人たちのことにほかなりません。なぜならば、彼らはみずからの人間性の中に精神的なものを備えていない場合、胃の中に入れたものを直接ルシファー的な潮流へともたらすからです。霊的なものを欠いたまま食べたり飲んだりしたものは、胃を通ってルシファーのもとへと運ばれていきます。」

「『缶詰』とは、図書館やそれに類似したものを指します。このような場所では、確かに人々が従事してはいるものの、現実的な関心を抱きながら追求していくことのない学問が保存されています。このような学問は人々の間で生きているのではなく、図書館にある本の中に存在しているにすぎません。人間から離れているところで行われている、このような学問に目を向けてください。図書館では、至るところにたくさんの本が並べられています。各々の学生は、博士の学位を得ようとするとき、学術的な論文を書くことから始めなければなりません。するとこれらの論文は、可能な限り多くの図書館に保管されることになります。そして、このようにして博士号を得た人がなんらかの地位に昇進しようとするときには、またしても学樹的な論文が現れます。現在では、人々はこのようにして絶えず論文を書き続けなくてはならないわけです。しかし現在、このようにして書かれた論文のうち、実際に読まれるものはほんのわずかです。人々はなんらかの準備が必要になるときにだけ、図書館に保管されている論文を引用するのです。このような『知恵の缶詰』こそ、アーリマンを援助するための非常に良い手段となるのです。」

アーリマンがどんなところに潜んでいるか、どのような場合に力を得るかについて、非常に示唆に富んだ指摘です。アーリマンは役に立たない学問、ただの学問のための学問のようなものの中に潜んでいる、ということではないでしょうか。唯物論自体のことを言っているのかもしれません。そして、誰にも読まれない論文が山のようにあり、その知識は普段は缶詰のように誰にも食べられることもなく無駄にストックされているのです。現在においては、唯物論的論文や論考を書く人は、シュタイナーの生きていた100年前に比べたら、何百何万倍にもなり、その論文の数も、紙媒体ではなく、デジタルデータ化されて天文学的な数に上っていることでしょう。ですので、アーリマンが、こういう『知恵の缶詰』を容易に得て利用しうる可能性がとても高くなっています。

同時に、現代の人間、特に専門技術的な職業についている人々の中には、その人間性の中に精神的進化に無頓着な人つまり、金儲けのための偽スピリチュアリスト、マッドサイエンティスト的な人もとてもたくさんいます。そういう人たちの知識、情報、論理などは、その人の精神の胃袋で消化されて精神の栄養にはならず、ルシファーのところに、そのまま流れていくのでしょう。アーリマンがルシファーに「君には胃を委ねることにしよう」と言ったのは、こういうことではないでしょうか。

こうやってアーリマンとルシファーが協力して、論文の数はどんどん膨れ上がって増えていき、論文の中の知識は、人間の精神性により消化作用、咀嚼作用を受けていないので、それを書いた人から、直接、ルシファーにその精神性が流れ込んでしまい、人間にとって栄養となることはない、ということでしょうか。偽スピリチュアリストのセミナーに何度行ってもアセンションなんかしませんし、逆に、悪い波動を受けて良いことはありません。100年も前にシュタイナーは、そういうことを見抜いていたのかもしれません。

データベースの総体としての知識は山のようにどんどん増えていくのに、人間の精神性は少しも進化しない。なぜなら、その精神科学的知識の栄養はルシファーにどんどん吸い取られていくからです。これは、人類にとっての大災厄と言えるでしょう。科学技術はどんどん進歩しているように見えるのに、その進歩に反して人間の精神性はどんどん貧しくなっていくわけですから。これではまるで、人類は核兵器を持った猿のようになってしまい、とても危険な状態を引き起こし、一歩間違うと人類滅亡となってしまうでしょう。

ルシファーと神を混同する危険性について。

「近代以降の人類の進化において唯物論が台頭しはじめた頃、特別な摂理に導かれて非常に注目すべき事柄が生じました。ここではミルトンの『失楽園』とクロップシュトックの『メシア』という、二つの文学作品を例に挙げてみましょう。これらの二つの作品では、霊的な世界を描くに際して、あたかも楽園は失われ、人間は楽園から追放されたかのように描写されています。ミルトンの『失楽園』も、クロップシュトックの『メシア』も、対立し合う善と悪、神と悪魔の二つに分裂した世界を取り扱っています。人々が世界の文化を二つに分裂したもののように考えるようになったのは、近代が犯した大いなる誤りです。本当は、世界は三つの側面から捉えなくてはならないのです。その第一は、高みを目指して上昇しようとするルシファーの力です。ルシファーの力は、神秘的なもの、熱狂的なもの、想像力に満ちたものを通して—さらには、堕落しようとする傾向や無限的なものを通して—人間に近づいてきます。このようなルシファーの力は人間の血液の中で生きます。第二は、アーリマンの力です。アーリマンの力は、干涸びたものや、重いものの中で—生理学的に言うと、骨格システムの中で—生きます。そして、このようなルシファーとアーリマンの中間に立つ第三の存在がキリストにほかなりません。ルシファー的なものが第一で、アーリマン的なものが第二、そして両者の真ん中に位置するのがキリストなのです。」

シュタイナーは単純な善悪二元論、神と悪魔というような二律背反に陥ってはならないと言いたのでしょう。ルシファー、アーリマン、キリスト、この三者の間でバランスをとることが大切であると言っています。

「現在私たちは、ミルトンやクロップシュトックが霊的な世界について行った描写を読みます。このとき私たちは、どのようにしてこれらの文学作品を読むのでしょうか。私たちはこれらの本を読むとき、ルシファー的な特性が『神的なもの』と呼ばれているものに転用されているのを見出すのです。クロップシュトックやミルトンのような人間は、かれらの前に『神的なもの』として現れるルシファー的なものとアーリマン的なものの間の戦いを描こうとしています。近代の人類が『神的なもの』として描写するものの大部分は、単なるルシファー的なものにすぎないのです。しかし人々は、アーリマン的なものの場合と同様に、ルシファー的なものに関わるこの問題をほとんど理解していません。このことは、ゲーテの『ファウスト』で、メフィストフェレスが『主』と対置される場面にも関係しています。ゲーテもまたアーリマン的なものをルシファー的なものと区別することができませんでした。そのためゲーテの描いたメフィストフェレスは、ルシファーとアーリマンが混ざり合ったものになりました。」「過去の唯物論的な数世紀が『神的なもの』と呼んだものの中には、多くのルシファー的なものが存在しています。現代の人間が宗教を広めようとしている手段の多くは、言葉を介してルシファーの翼に乗って人類の中に入り込みます。私たちは、このような事実を冷静に認めるような道を見出さなくてはなりません。人類を高みへ上昇させようとするルシファーと、みずからの指導のもとに人類を下に向かわせようとするアーリマンの二元論からの真のキリスト的なものの認識へと到るならば、人類は再び、真の意味において、クリスマスの出来事の前に立つのです。私たちはこのようなクリスマスの出来事を通して、『地球に真の意味を与えるものが人類進化の中にいかにして入り込んだか』ということを思い出さなければなりません。」

私たちが、神の属性だと思っていた事柄が、ルシファー的なものであったという指摘は、とても衝撃的です。ルシファーは人間の精神性を向上させるように見える属性を持っているとシュタイナーは言っています。この故に偽スピリチュアリストが跋扈するのでしょう。偽の宗教的権威も多いのでしょう。中世のカトリック教会はその巣窟だったのでしょうね。現在のバチカンはどうなのでしょうか。

先の記述の通り、人間が自身の精神性を向上させる態度を持っていないときは、その精神的栄養は人間のものとはならずに全てルシファーの方行ってしまうということでしょう。しかし、人間が自身の精神性を向上させる態度でいるときは、ルシファーは人類を高みへ上昇させるのでしょう。

人間は、精神性を向上させることも、堕落させることもできる自由を持つに至りました。精神性を向上させる選択をすれば、ルシファーも「聖霊」になることができるのでしょう。

サタンは、キリスト教では、神に対置される存在として描かれていますが、シュタイナーの考えからは、サタンとはメフィストフェレスと同じく、アーリマンとルシファーの混ざり合ったもののことなのかもしれません。

そして、我々は単なる善悪二元論に立って物事を判断すべきではないのでしょう。アーリマン的なものも、ルシファー的なものも人間の進化には必要不可欠のものであり、このアーリマンとルシファーにバランスをもたらすのがキリスト的なものであるということでしょう。具体的なことは、もっとシュタイナーの文献を読んで調べていくつもりです。

まとめ

今まで調べたことをまとめ、併せて私の考えを書いておきます。

3000年紀(西暦2000年以降)に、地上にアーリマンが受肉します。受肉するとは、ものすごく学識のある人にアーリマンが憑依することだとシュタイナーは言っています。

しかし、悪魔のような姿をした者が、人類に大災厄をもたらす、というような考えをしてはいけないと、シュタイナーは言っています。

憑依された人間は、科学技術、数学、統計を駆使して、人間に偽の霊的世界を見せます。これは多分、インターネット、仮想現実のことかもしれません。個人個人にパーソナライズされた仮想現実を見せることによって、人々がお互いを信じなくなり、分裂を生じさせます。そして、どんどんと分裂させて、終いには、一人の人間のうちでさえも、精神分裂を引き起こすそうです。こうして、アーリマンのもたらす、科学技術に人々は魅了され、それなしでは生きていけなくなり、霊的進化を止めてしまい、人類は絶滅するかもしれない、という大災厄をもたらすそうです。

アーリマンはルシファーと協力します。アーリマンは、専門技術的な論文においては、実際に使われない知識を大量に生み出して、役に立たない知識を大量にストックさせ、アーリマンの知恵の缶詰を大量に生み出します。一方、ルシファーは、唯物論的な知識ばかり肥大化させて精神的な成長が面倒で望まない人々、偽スピリチュアリストや追従者たちの精神性を破壊し、堕落させ、そういう人々が生み出した精神的な養分を吸い取ってしまうのです。そして、総体的な人類の精神的進化は果たされず、高度な科学文明を持つ一方で、低い精神性に甘んじて、いわば、核兵器を持った猿のような状態になり、人類を滅亡させてしまうという大災厄を引き起こす可能性がある、ということです。

そして、アーリマンも、ルシファーもこのように人間に大災厄を引き起こす可能性のある危険な存在である一方で、人間が自由意志に基づき、善なる選択、霊的進化を志向する選択を行えば、アーリマンもルシファーも「聖霊」になることができる、と言っているようです。

ここで、重要なのが、アーリマン的、ルシファー的なものの両方にバランスをもたらすキリスト的なものであると、シュタイナーは述べています。

以上、長くなりましたが、最初のミッションである、アーリマンが三千年紀(西暦2000年以降)に受肉し、ルシファーとサタンを使って、人類に大災厄をもたらす、ということの意味を詳しく調べること、という部分は、これにて完了ということにさせて頂きます。

次回からは、2番目のミッションである、日本は地球の頂点であり、日本が、世界に起きる大災厄の雛形になり、日本で、数々の大災厄が起きる、ということの意味を詳しく調べること、についてお知らせします。