「天気の子」を観ました。

絵はとても綺麗ですね。

ファンタジックな雰囲気も、若い男女の初々しさも、とても良かったと思います。新海誠監督のアニメ作品というのは、我々の青春時代の、「転校生」、「時をかける少女」、「狙われた学園」のような立ち位置にあるのではないかと思います。

以下、若干ネタバレがあります。

天気というのは、龍神様の守備範囲なのですが、龍神様というのは、見返りを求める神様ですので、天気を変えるのに龍神様の力を借りれば、その見返りを求められるのは当然です。

そのため、昔は、雨乞いや雨除けの儀式に人柱の風習があったりしたのですが、天気の巫女さんが龍神様の世界に取り込まれるということは、人柱、人身御供の習慣が亡くなった現代でも起こり得ると思いました。

そもそも、神様にお願いすると、日本の神様は、それ相応の見返りを求められることが多いと思います。その辺、きっちりしています。そういうことを知ってか知らずか、神職とかを除いて、昔の日本人は、やたらに今みたいに神社で手を合わせるときに、日常的に神様にお願い事はしなかったみたいです。普段は、神様には感謝を述べていたらしいです。

神社のお祭りも、御供物や御神楽なんかをたくさんやって豊作を祈ったりしたものです。その時も、村の収穫が豊かになりますように、とか、個人的な願いというものではなかったのです。個人の願いをすると、見返りに、何かを要求されることを知っていたからかもしれません。

「神」の枕詞は、「ちはやぶる」ですよね。この言葉は、もともと、「荒々しい」とか、「猛々しい」という意味ですから、神さまは「怒れる」存在で、山や海に、お「鎮まり」になっているものでした。

現代の人々は、このことを知らずに、お賽銭を払って、お願いしてますよね。お賽銭は、神社の人にいくわけで、神様のところにいくわけではないので、お賽銭を対価として願い事をかなえてくれると思っている方は、この際、認識を改められた方が良いのでは?と思います。

話が脱線したので、もとに戻します。晴れを呼ぶ女の子は、龍神様の世界に連れて行かれてしまったのを、男の子が取り戻しに行きました。彼女を取り戻したせいで、世界は雨がずーっと続くことになってしまいました。

昔は、私一人が犠牲になれば世界が救われる、というような自己犠牲に美学を感じたものですが、この映画にもあるように、あの子を救い出せたら、世界がどうなってもかまわない、というような価値観に最近変わっているのかな、と思いました。個人主義の価値観がこういうところにも表れているのかな、と興味深く思いました。もちろん、自己犠牲も個人主義もどっちも素晴らしいと思います。