「遥か彼方に」と「海の微風」

アメリカのリアリズム画家、アンドリュー・ワイエスの”Faraway”「遥か彼方に」です。

この絵画の中で、少年は、膝を抱えて、少し微笑気味に何かを考えているような様子です。

彼が腰を下ろしているのは、おそらく冬の枯れ草でいっぱいの野原です。

この茫漠たる、殺風景な景色の中で、この少年は、どんな想像をめぐらしているのでしょうか?

春の花でいっぱいの野原でしょうか?それともクリスマスのお祝いの会やプレゼントについてでしょうか?または、雪でいっぱいになるこれからの季節の雪遊びを想像しているのでしょうか?

「遥か彼方に」という、タイトルからすると、少年は、もっともっと遠くの世界を想像しているのでしょうか。真っ白な大きな帆を張った帆船で、波の逆巻く大海原、緑の小島、に乗り出すところかもしれません。

この絵をみるたびに、こんな詩を思い出します。

海の微風         ステファン・マラルメ

肉体は悲し、ああ、われは、全ての書を読みぬ。

遁れむ、彼処に遁れむ。未知の泡沫と天空の央(さなか)にありて 群鳥の酔ひ癡れたるを、われは知る。

この心 滄溟深く涵されて 引停むべき縁由(よすが)なし、眼(まなこ)に影を宿したる 青苔古りし庭園も、

おお夜よ 素白の衛守固くして 虚しき紙を照らす わが洋燈の荒涼たる輝きも、はた、幼児に添乳する うら若き妻も。

船出せむ。桅檣(ほばしら)帆桁を揺がす巨船、異邦の天地の旅に 錨を揚げよ。

“倦怠”は、残酷なる希望によつて懊悩し、なほしかも 振る領布(ひれ)の最後の別離を深く信ず。

かくて、恐らく、桅檣は 暴風雨(あらし)を招んで、颱(はやて)は 忽ち 桅檣を難破の人の上に傾け、藻屑と消えて、帆桁なく、桅檣なく、豊沃なる小島もなく……

さはれさはれ、おお わが心、聞け 水夫の歌を。

この詩の中の主人公は、マラルメ自身でしょう。彼は、家の書斎にいて、執筆をしているのでしょう。傍らで、彼のうら若き妻は、赤子に乳を与えている。安全で、平穏で、幸福な状況です。

しかし、主人公は、大海原に漕ぎ出す冒険の旅を想像しています。男というのは、現実が満ち足りていればいるほど、冒険に掻き立てられるものかもしれません。彼の家の美しい庭園の風景も、美しい妻も、彼の精神の冒険を引き止めることは出来ません。

彼はすでに想像の中では、大海原に漕ぎ出し、難破することさえも恐れています、そして、水夫の歌まで聞こえてくるのです、彼の書斎の机に向かっていながら。

また、「肉体は悲しい」と、人間の有限性を嘆くと同時に、「全ての書を読みぬ」と、人間の精神の偉大さ、想像力のたくましさを見事に示しています。

私は、こう言った絵画や詩に強く共感し、感動します。なぜなら、私自身の想像力をも大いに掻き立てられるものだからです。